男と猫、おじさんの車で雪の降る中を運転している。
行先はどこだったか、もう思い出せない。
街灯はまばら、視界は不良、雪の白さのせいで昼なのか夜なのかももうわからない。
猫は助手席に、お見舞いの果物バスケットのようなもの(あるいはそのものかもしれない)に小さいブランケットを敷き詰めた中に納まっている。そしてその籠にシートベルトを着けている。
視界が悪いから、男はいつも以上に安全運転、というかスピードを落としている。
猫は小さく鳴いて、問い掛けた、ように男には思えた。
(ねえ、まだ悲しい?)
「もう、悲しくはないんです」
男はそう答えてから、少し考えながら続けた。
「悲しい、という気持ちは無理に消すことはできないと思います。でも悲しいまま、他の作業をすると、とんでもない間違いを犯すかもしれない。だから、悲しくてもなにか、失敗してはいけないときは、目の前のことに集中するようにしているんです。その結果、その時は悲しみを忘れている、と言えるのかもしれません」
(……たとえば、運転しているとき?)
「そうです」
(つまりは、あなたは、感情を理性で御することができる、そう考えているのね)
「実践するのは難しいです。でも可能な限り、そうすべきだと思います」
(人間だから?)
男は答えられなかった。こういうとき、あの人がいたらこう言っただろう。
『お前は偽物のくせに』
「悲しいことを引きずっていたら、悲しいことを起こしてしまうかもしれない。そんな風にどんどん悲しいことが増えていったら、きっと僕は耐えられなくなるでしょうね。だから、なるべく、可能な限り増やさないようにするんです」
(……そう)
猫は車の振動から逃れるように、ブランケットの中に潜り込んだ。寒かったのかもしれない。
*
男は雪の日の運転が、少しだけ好きだった。
それはフォグランプを点けることができるから。